アフガニスタンとはどんな国なのか
 空爆が始まって以来、アフガニスタンがニュースとして取り上げられない日はない。しかし、日本人で実際のところ彼の地アフガニスタンを知る人は少ない。また、現在カーブルに居られる方々はごく少数を除いて、国連機か何か、飛行機で直接入っている。しかし、陸路で鄙びた地域を見ながら行っているのとは大分印象が変わるだろう。アフガニスタンとはそもそもどんな国なのだろうか。

 街行く人は皆、素朴で慎み深く、物乞いさえもインドやフィリピンのようにまとわりつくことはない。「ノー・マネー」と言えば一礼をして立ち去る。その近づき方、離れ方がいかにも堂々としていて物乞いとは思えない。子供たちも何もしないでお金をもらおうとはしない。

 靴を磨く道具を持っていれば靴を磨かして欲しいと頼み、何も持たない子達は野草の花を摘んで小さな花束として持ってくる。しかも、はにかみながら持ってくる。昔の日本人が持っていた古き良き時代の「恥」の文化がここではまだ生きている。

 女性はブルカを被っているが、そのことに対して女性蔑視といった意識はない。アフガニスタンではRAWAとかという女性団体が「ブルカ着用義務は女権の侵害とか、女性の自由を奪っている」などと叫んでいるが、一般的なアフガニスタンの女性に「ブルカを脱ぎ捨てることが自由だ」などと言うのは、街中を裸で歩けと言うのも同じである。

 要するにブルカを被りたければ被れば良いし、被りたくなければ被らなくても良い。本質は何事も強制されることが良くないということである。都会などでは高等教育を受けている人たちや金持ちなどで徐々にブルカ着用は減るかもしれないが、一般的なアフガニスタン人に「ブルカ不要」と喚くのは、無意味だ。

 日本人が鯨を食べるのも固有の食文化であり、ブルカを被るのもアフガニスタンの固有の文化である。そうした文化を太平洋戦争の敗北後、徹底的に喪失させられた日本の今がいかに変な国に成り下がっているか肝に銘じるべきだ。

 日本の二の舞をアフガニスタンに踏ませてはならない。

 他国の文化をとやかく言ってはならないし、行きすぎればそれこそ内政干渉である。

 家に帰りブルカを脱げば、その下には極彩色の民族衣装「カラ」が現れる。彼女たちのおしゃべりは延々と続く。イスラームの教えを守って男たちも一所懸命に働く。

 いつどんなときでも、誰に対してもその人物が敵ではない限り、相手が何を欲しているかを考え、受け答えをする。その答えは必ずしも彼の考えと一致する必要はない。

 旅人が遠い道のりを来てくれた。ただ、そのことに対する感謝の気持ちである。日本のことをしゃべったときに、いったい何人から「今度、お前が帰るときに一緒に行くよ」と言われたことか。続けて「歩いて何日かかる」と聞かれたことか。

 街の市場には物売りの喧騒はあるが、騒擾ではない。押し付けがましい売り方は皆無といっていい。

 ふっかけられることもない。もし今、カーブルで日本の報道陣らが、ふっかけられているのなら、戦争を通じて人々が疲弊し狡猾にならざるを得なかったのだろう。哀しむべきことである。

 食べ物も香辛料はほとんど使わないので、日本人の口にも合う。正直、パキスタンからアフガニスタンへ入るとほっとする。ちょうどインドからネパールへ、スペインからポルトガルへ入ったときの感覚だ。

 現在、爆撃されているトラボラ地区も街というより、野中の一軒屋といった感じの家が30キロメートルに一戸ずつあるというような鄙びた地域である。

 パキスタンの北西辺境州の州都ペシャワルは、旧ソ連の侵攻以来アフガニスタン難民を多数抱え、既に20数年の歳月が流れた。最初は難民キャンプだけにいたアフガニスタンの人たちも時が経つにつれ、周囲の一角でアフガニスタンコロニーと呼ぶべき街を形成していった。

 その街中では、パキスタン人が住んでいる地域と趣を異にしている。先に書いたような独特の雰囲気がある。この地域は英国が引いた国境線とは別に、同じパシュトゥン人としてこの地域に長年住んできたという自負も大きい。著者の印象としてのアフガニスタンはこんな感じである。

 次にアフガニスタン自体をデータ的な数字から拾ってみよう。面積は65万2,225平方キロメートルで日本の約1.7倍の広さである。人口は国連の98年推計の統計資料によれば2,140万人とされているが、さまざまなところで発表されている数字は約1,800万から2,800万人と1,000万人の差がある。

 もちろん国内で近年、日本のような国勢調査が行われているわけでもなく、正確な実数は分からないというのが本当のところだ。独立日は1919年10月9日。これに関しては後段で詳しく触れたい。

 政体はもちろんイスラーム国。イスラーム国と日本や諸外国との最大の違いは何か。それは国を治める法律の上に「イスラームの教え」がくるということである。そのイスラームの教えとは「クルアーン」、声に出して読むものと言われている「コーラン」に他ならない。ここでは間違った英語帝国主義的発音の『コーラン』を使わず、本当のアラビア語の発音である『クルアーン』を使う。それは最低限異文化に対する礼儀だと心得るからだ。

 民族的な比率で言えば、パシュトゥン人が多数を占める。その他はタジク人、ハザラ人、ウズベク人など。あえてパシュトゥン人を多数としたのは、これもさまざまな統計資料により相当の差がある。少ないもので38%、多い統計では60%としている。

 現地での感覚を大事にすれば、南部と東部のインド・アーリア系のパシュトゥン人が約55%、北東部のペルシャ系タジク人が約20%、北西部のトルコ系ウズベク人が約10%、中央部のモンゴル系ハザラ人が約15%というところだろう。普通、アフガン人というと、このパシュトゥン人を指す。

 日本ではパシュトゥン人は一部族のように報道されているが、部族としては大きく12に分かれている。大きな部族はドゥラーニー族、ギルザイ族、の2部族である。宗教はイスラームだが民族によって宗派が違う。大多数のパシュトゥン人とタジク人、ウズベク人はスンニ派、少数民族のハザラ人はシーア派である。公用語はパシュトゥン語(アラビア語系)とダリ語(ペルシャ語の一種)。首都はカーブル、日本ではカブールと表記されているが現地の発音に忠実に書けばカーブルとなる。

 平均寿命は1995年から2000年の統計によれば45.5歳という発表があるが、戦争前の77年の統計で42歳というのがあり、戦乱の中で平均寿命が上がっているのはおかしい。一説には38歳という数字も独り歩きしており、客観的な諸条件を当てはめればこの方が整合性がある。

 飲料水に関しては、国民の6%にしか安全な飲料水がないというユニセフのデータがある。しかし、旧ソ連侵攻前までは学童前や学童期の子供の重要な仕事の一つが水汲みであった。特定の場所へ行けば、水を得ることはできたのである。

 現在は旱魃も伴って、それが無理になってきている。アフガニスタンで20年の活動歴がある中村哲医師のペシャワル会が井戸掘りを活動の一つの柱に据えていることも理解できる。

 旧ソ連が侵攻してくるまでは、経済の中心は農業と牧畜業で主要産品は小麦ととうもろこし、果実、羊毛、羊皮革などで遊牧民が約200万人いた。国民総生産は190ドル(1977年度国連推定)で戦乱までは貧しいが、何とか凌いできていたというのが事実だろう。人々は心豊かで見知らぬ旅人が街中でポツンと座っていたら、昼時になると見ず知らずの家からでも食事の声がかかったりする。そんな雰囲気のある国だった、とあえて書こう。

 位置的には北側にタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンと「民族名+スタン」の国名が多い。「スタン」はペルシャ語で国や土地の意味である。英語の「ランド(land)」に相当する。アフガンはペルシャ語で「山の民」を意味する。旧ソ連から独立したウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの各国は、旧ソ連時代にはスタンを省かれ、旧ソ連のイスラーム国家群であった。西はイラン、東から南にかけて逆L字型のパキスタンと接し、内陸国家なので海はない。

 交通はすべてバス、自動車、馬、ロバ、らくだに頼っている。鉄道はない。気候風土は夏の暑さは平地では50度になり、冬の厳しさは高地では零下30度を記録する。ただ、日本と同じように四季はある。冬の厳しさから緩みだし、春が訪れる。夏の激しい暑さも10月頃には秋風がそよぎだす。その頃にパキスタンからアフガニスタンに入ると「風が変わった」と感じることができる。

 国内の地形は北側から国のど真ん中にかけヒンドゥークシュ山脈が横たわり、西側からもサフィードクーフ山脈がカーブルに向って横たわる。まさに山岳国家である。

 主要都市は首都のカーブル、北側に位置する国家との入口となるマザリシャリフ、南部のカンダハル、イラン国境に近いヘラートが四大都市となる。

 ある意味、米国が合衆国としてそれぞれの州が独立している感じと似ている。
目次     NEXT