| 大国の狭間に揺れたアフガニスタン史
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| 次に歴史的な側面を見てみたい。 主な歴史は、西暦紀元前にはペルシャに起こったアケメネス朝ペルシャに続いてアレキサンダー大王の時代、そして、インドのマウリア王朝のアショカ王の時代などを体験している。 9世紀にアフガニスタン全土がイスラーム王朝に征服され、13世紀にジンギスカン率いる元に征服される。現在も暮らすハザラ人はこの時代のモンゴル系の末裔である。特にカイバル峠近くの首都カーブルは、そうした歴史に翻弄されてきた。まさにトルコのイスタンブールと並び称される文明の十字路である。 その後、16世紀には東半分はインドのムガール帝国に西半分はイランのサハビー朝に支配された。 18世紀に入って、カンダハル付近からパシュトゥン人系のホタキ王朝がおこって、イランのサハビー朝勢力をアフガニスタンから追い払い、当時のイランの首都イスファハンを占領する。これによってアフガニスタン最初の民族国家が成立したのである。 これに続いて1747年、パシュトゥン人系のドゥラーニー部族の長、アフマッド・シャーがカンダハルで王位に就き、ドゥラーニー王朝が成立。その後、アフガニスタン王国の基礎が築かれた。 1826年に成立したバラクザイ王朝(1826〜1973年)下で1838から42年の第一次英・アフガン戦争と1878から80年の第二次英・アフガン戦争を経て1880年、英国の保護領となる。 地政学的に北方のロシア、南方のイギリスとの争いの地であったアフガニスタンは、この帝国主義時代の列強の間で翻弄された。 ロシアの影響が強くなると英国に近寄り、英国の力が増してくるとロシアと手を結ぶ、こうやって右往左往しながらも、アフガニスタンは形の上では独立を守り続けた。 地政学的に重要なインダス川は、チベットのカイラス山付近を源流に西部カシュミールのラッダークを通ってパキスタン北部に入り、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間を北西に向かって流れる。川は山々の間を縫い、世界有数の渓谷を駆け抜け、最後には出口を見つけると、パンジャブとスィンドの平原へどっと流れ出す。そこからは、川はゆるゆると蛇行し、時には幅30キロメートルにもわたって何本もの支流に分かれ、カラチからインド国境にまで広がる、幅250キロメートルもの大デルタを経て、アラビア海へと静かに流れ込む。その全長は3,200キロメートルにも及ぶのである。 パキスタンが国として成立するまでは揚子江、黄河に次いでアジアで3番目に長いこのインダス川が国境線となっていた。東側がインドで西側がアフガニスタンであった。 それが1893年、英国とロシアの抗争の結果、緩衝国として勝手に線を引いてパキスタンという名前も与えて国を作った。そのときにパシュトゥン人のホームランドが真っ二つに引き裂かれた。その国境線策定の線を「デュランドライン」と呼ぶ。これが、現在のパキスタンとアフガニスタンの国境線だ。 そして、第一次大戦後王位についたアマヌゥラー・カーンは1919年の第三次英・アフガン戦争で英国を撃退し、独立を達成した。 |