| 共産主義寄りの政策とイスラーム運動の萌芽
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| 本格的な再独立をなしえたアマヌゥラー・カーンに続いたナーディル・ハーン国王が三三年に暗殺される。この跡を継いだのが、現在、イタリアに亡命しているジャヒル・シャーである。彼は社会主義、共産主義に対しても「イスラームの寛容の精神」を発揮し、さまざまなことを認めていった。 当時の唯一の合法政党はアフガニスタン人民民主党である。その党内でもハルク派とパルチャム派の闘争があった。「ハルク」はもともと国内最大の左翼団体が発行する機関紙の名称である。パルチャムは「旗」を表し親ソ的な色合いが強い。旧ソ連進攻までは自由だったとの報道も散見されるが、それは共産主義的自由に他ならない。イスラームの教えは宗教の範疇として弱められて行った結果の自由や男女平等に他ならない。 この点をきっちりと押さえておいて欲しい。まさに自由とは何か、である。 ジャヒル・シャー国王は「イスラームの寛容の精神」で、普通、イスラーム圏なら認められない女学校を短期間ではあったが開設したし、外国語学校も開設した。イスラーム圏ではお馴染みの、女性の顔を隠すためのブルカやベールを脱ぐことを奨励したり 官僚には民族衣装のズボン「トゥンボン」や着丈の長い上着「ぺラハン」(上下服を合わせてカラと呼ぶ)ではなく洋装を強制したりした。 しかし、間違ってはならない。これらの奨励や強制が自由主義的発想からきているのではなく、共産主義的発想の宗教力を弱めるための施策として行われているということに目を向けねば見誤る。イスラームの教えが社会制度から排除され、個人の信仰としての範疇に弱められた結果にある自由や男女平等に他ならない。 エリート養成のためのカーブル国立大学の開設も、援助によるつぎはぎではあったが、着実に行った。この大学は既存の法学部や薬学部などの学部学校を統合した総合大学として誕生した。 この大学に1958年、カイロ大学に留学していた神学者グーラム・モハマッド・ニアズィーという人物が神学部の講師として就任する。彼は学生や教授たちを中心としたイスラーム団体を作るために活動を開始し、「イスラーム協会」という団体を作った。イスラーム協会は当初、翻訳やイスラームの啓蒙運動などのを行う文化的団体だった。 そうしたなかで先進的な学生たちが主催していた勉強サークルを中心として1968年に下部組織として生まれたのが「ムスリム青年組織」である。60年代中ごろから共産主義の勢力や考え方が急速に浸透してくるなかで、ムスリム青年組織はイスラーム協会のなかでも共産主義的東側の大国から見た場合に過激な組織へと変貌していく。 ただ、その過激の本質は暴力的という意味ではなく共産主義と戦う組織になっていったということである。それは、カーブル大学の学生が前衛となる感じで共産主義は広まっていったからだ。これに神学部の教授たちが憤りを感じ、学生たちを取り込むための団体を作ったとしても何の不思議もない。 多くの共産国に変貌した東欧の国々を思い出して欲しい。旧ソ連が多くの人を取り込み支配していった歴史的事実を。彼らはそれに抵抗し、屈しないための組織となっただけだ。ただ、その思想的背景に米国的自由(資本)主義ではなかっただけのことである。その思想的背景を支えたものがイスラームであったに過ぎない。 ここで、もし米国的自由(資本)主義的方向性を探っていたら、ここまでの混乱はなかったかもしれない。しかし、その繁栄と引き換えに自国の固有の文化を守ることも誇りを持って生きることもできず、アイデンティティを持てない骨抜きの民にならなかったことも認めなければならない。だからこそ、このイスラーム協会に後の「ムジャヒディン」の中心的人物となる者たちが集うのである。 その代表としては、後のイスラーム協会の党首となる神学部教授のブルハヌディン・ラバニが就任した。このラバニらが作ったムスリム青年組織に学生のときに入団したのが、グルブディン・ヘクマティアル。彼は後に方法論の違いから、イスラーム協会から脱退、そして自ら「イスラーム党」を作り、その党首となる。 そして、ヘクマティアルと同じように学生時代に入団したなかに、後に「パンジシール渓谷の獅子」と呼ばれるアハマド・シャー・マスードがいた。 先のラバニは現在もアフガニスタン・イスラム国の大統領として国連で議席を維持している。あえて強調するこのラバニとマスードはタジク人、ヘクマティアルはパシュトゥン人なのである。 |